追悼記

「栄寛さん、また会おう!」

川崎医科大学 内科学(呼吸器)
教授  岡 三喜男


 栄寛さん(義父)と初めて会ったのは、私が大学二年秋の夜だった。いまから約三十二年前になる。栄寛さんは愛想よい笑顔で、窓越しに庭の竹林がみえる今も変わらない応接室に私と友人を迎えてくれた。当時、栄寛さんは私のことを「お前」と呼称していたように記憶している。栄寛さんはいつも私に「お前、勉強しないとだめだぞ」だった。
 栄寛さんの出自は大正六年、福島県二本松で開業医の次男として生をうけ、鉛筆の発音は「いんぴつ」だった。日本医科大学へすすみ、先に東京帝国大学医学部へ進学した長兄と暮らしていた。「兄はいつも本を読んでいたよ。ごろっと横になっては本を読み、起きては読んでいた」、「俺は勉強しなかったなあ」、栄寛さんの回想癖だった。しかし医学生の栄寛さんは人なつっこく、同窓の人気者だったようだ。その東京で、栄寛さんの運命をかえた和子さん(義母)と出会った、後年、栄寛さんと私の出会いでもあったのです。それは戦前の出来事でした。卒後、栄寛さんは大日本帝国海軍へ志願し、潜水艦に軍医として乗船しました。特攻を目前に終戦を迎え、この時の同朋は栄寛さん生涯の宝物「潜水艦の集まり」となりました。
 栄寛さんは終戦後、和子さんの故郷佐賀へ移り住み外科医として再出発しました。短期であったが長崎大学医学部外科学第二教室に在籍、自ら医学の故郷としたのです。しかし日々の無給医生活と第一線での診療に忙殺され、大学で学ぶ間もなく診療所を開設しました。そこから栄寛さんと和子さん、二人三脚の開業医生活が始まったのです。それは栄寛さん生涯「警察医」への出発でもあったのです。
 栄寛さんは「三喜男君、この心電図を教えてくれ」、「胸のレントゲンをみてくれ」、医師になった私を三喜男君と呼ぶようになった。相変わらず「三喜男君、勉強するんだぞ」だった。栄寛さん、医学講演会では素朴な質問を浴びせかける最前列の常連であった。臨床医学は勿論、法医学、英語、国語、茶道、余興のマジックなどなど、時を惜しむかのように自己学習に励んでいた。この時、栄寛さんは医師として教養人として、木鶏の域に達していたのです。
  栄寛さんはいつしか私を「三喜男さん」と呼ぶようになった。この頃の栄寛さんは、耳が遠くなり腰痛のため杖を使うようになりました。しかし老健の施設長として、得意の話術とマジックで入所者の人気者でした。自らを鼓舞するがごとく、私に「お前、勉強するんだぞ」を言い続けた栄寛さんは、大学で教壇に立つ私に「三喜男さん、勉強するんだぞ」は言わなくなった。それは、栄寛さんと私の暗黙の了解だった。平成十六年四月、長崎から倉敷へ赴任した後、栄寛さんは私に「ありがとう」と声をかけました。この「ありがとう」は栄寛さんと私の新しい出発点だったのです。

  栄寛さんは戦前、戦中、戦後を柔道で鍛えた強靱な体、医師としての使命感、享年八十八歳まで寡黙に天命を全うした。栄寛さん、もう一度「お前、勉強するんだぞ」と、声をかけてください。

栄寛さん、また会おう!

                                                        平成十八年七月 通夜への車中で