岡山大学大学院医歯薬学総合研究科・医学部 免疫学講座
中山睿一教授 退官記念集

「いまも中山先生との出会いに感謝」

川崎医科大学 呼吸器内科
岡 三喜男


 「あっ中山先生!久しぶりです」、2005年9月、大阪伊丹空港の札幌行き搭乗待合で偶然に中山睿一教授と再会しました。いつお会いしたか忘れるくらいご無沙汰していたが、相変わらずもの静かで温厚な学者肌の中山先生でした。前年4月、川崎医科大学へ赴任し約一年間超、当教室の再建のため自らの全学会活動と出張を厳しく封印していたので、この日は久しぶりの日本癌学会総会(札幌市)への参加でした。この再会がその後、大きな成果に繋がるとは誰も予想できませんでした。
 中山先生とは1984年、後に日本で最初に創設された長崎大学医学部の腫瘍医学教室(珠玖洋教授、元三重大学医学部長)でお会いしました。私は関連病院から大学病院へ戻って間もなくでした。当時、中山先生は助教授として赴任され、珠玖教授の右腕として大活躍されていました。腫瘍医学教室には、臨床医学教室から多くの血気盛んな大学院生が入学していました。私の出身母体である長崎大学内科学第二教室からも、後輩の野口雄司くん(前免疫学教室助教授)と鵜殿平一郎くん(理化学研究所)が一期生として研究に没頭していました。中山・珠玖両先生の強い指導力の甲斐あって歴史と伝統の下、大学院生達は続々と大きな成果をあげ成長、現在、全国の大学や研究所で指導者として活躍しています。
 中山先生が所属された腫瘍医学教室では、その魅力にとり憑かれた医学生達が通常の授業の傍ら徹夜で実験する光景がみられた。いま私の所属する大学では想像もできない活気が満ちあふれていた。当時、臨床の傍ら細々とひとりでリポソームの実験をしていた私は、中山先生達の様子うかがいを兼ねて夕方の抄読会に参加させて頂くことにした。一方、大学院生達は早朝に週三回の抄読会をこなし、昼間は実験に没頭し、夕方の抄読会では難解な論文を詳細に解説し討論していた。夕方の抄読会では、事前にKentucky fried chickenを好みで注文し会に臨むのが通例であった。長年New York (Memorial Sloan-Kettering Cancer Center)で過ごされた両先生の米国流勉強会であったが、浅学の私には難解な論文ばかりであった。しかし、臨床と基礎の融合を目指していた私にとって、後に大きな影響を与えることになった。
 中山先生が留学されたと言うより師事されたLloyd J. Old博士(Chairman of Ludwig Institute for Cancer Research)、今なお腫瘍免疫学の世界的な先駆者かつ大御所であり、我々の研究を支援されている。Old博士の日本人お弟子さんたちは、中山教授や珠玖教授(三重大学がんワクチン治療学)を筆頭にこの分野で精力的に活躍されている。私も米国留学中、Old博士の孫弟子にあたる野口くんと鵜殿くんにお世話になり、Washington DCからNew Yorkへ幾度も出かけた。この人脈が過去、そしてこれまで以上に大切なものになるとは想像できなかった。昨年6月、常宿としていたHelmsley Hotel at New Yorkを再訪し、当時を懐かしく回想した。
 さて中山先生とは伊丹空港で短い近況報告をして、やはり直ぐ仕事の話になった。中山先生はマウスとヒトの検体を用いて腫瘍免疫学の基礎と臨床の両輪を回し、偶然にも川崎医大消化器外科(角田教授)から臨床検体を頂き共同研究をされていた。当然その時、中山先生から私へ共同研究の依頼があり、学会から帰ったら連絡しますと言われた。私は新天地で悶々としていた時でもあり、口癖の「分かりました。いつでも協力します。」と返答し札幌へ発った。学会から戻ると早速に中山先生から電子メールが届き、福田実講師(現、長崎市立市民病院)にがん精巣抗原とがんワクチン開発に関する倫理委員会申請書類を作成して頂き、2005年9月から共同研究が始まった。2008年4月に大植祥弘くんを大学院生として派遣、病める患者さんのため、やっと我々の壮大な夢を実現する成果と機会が到来した。
 中山先生はこの度、岡山大学を定年退職し、この4月から川崎学園川崎医療福祉大学へ勤務され、同時に呼吸器内科教室で共同研究を継続することになりました。中山先生と共に、我々は長崎大学を含め国内外の大学や研究所との国際共同研究体制を整備し、既に夢へ向かう出発点に立っています。中山先生と我々の出会いが、多くの人達に幸せを運ぶことを期待して止みません。
 いま中山先生との出会いに感謝しています。

平成二十二年三月