2008年 呼吸器内科同門会誌・年報「巻頭言」(3月1日発刊)

「歴史を越えて,いま」

岡 三喜男


 今年,呼吸器内科ホームページを開設して一年が経過しました。この間,多くの方々にホームページを訪問していただきました。訪問者のなかにはホームページをご覧いただき遠方から受診され,少しでも皆様のお役にたてたことを教室員一同,大変嬉しく思っています。
 最近の報道でみられますように,医師不足と過重労働に起因する「医療崩壊」が叫ばれる中,我々は地域医療の要請に応えるべく日夜,救急医療,腫瘍,感染症,アレルギーを主体とした診療を堅持しています。この一年間,改めて教室員の労を労いたいと思います,ごくろうさまでした。一方,病院の増改築にともない皆様にはご迷惑をお掛けしておりますが,完成後は快適な空間での医療を提供できることを楽しみにしています。
 この一年,呼吸器内科には三名の新入教室員を迎えました。社会に資する若き医師の育成は,我々の最大の使命です。大学には教育すべき医学生,附属病院には研修医,教室には新入りあっての組織です。新年の嬉しい話題は,日々重症患者の診療に忙殺される中,新人を含む全教室員が六月の日本呼吸器学会総会(神戸市)で学術発表する機会に恵まれたことです。大学での診療,研究,教育は三位一体であることを再認識すべきです。何れの発表も日々の臨床から湧いた小さな疑問をまとめたもので,皆様からの批評を頂ければ幸いです。全員野球は,私の教室における最終目標のひとつです。
 2007年,医学生物学の話題はなんと言ってもiPS細胞(induced Pluripotent Stem cells)です。先日,Memorial paperとして医学生を混じた教室の抄読会で山中教授らの原著論文(Cell 131:861, 2007)を紹介した。驚異,わずか4個の遺伝子移入で体細胞から幹細胞を作成し(実際,3個で可能),ヒト細胞のreprogrammingに成功している。私の素人眼では神秘的な生命現象,複雑怪奇なヒト形成プログラムが3個の遺伝子で支配されているとは信じ難い,これからの進展が楽しみである。遡ってみると1774年の完訳『解体新書』による西洋医学導入,1857年にポンペによる西洋医学教育の開始(後述:化学の導入),1953年Watson & CrickのDNA二重らせん構造発表,2003年にはHuman Genome Projectが完了している。そして2007年,新知見の間隔が急速に短縮し,国際的な一般臨床医学雑誌にもGenomewide〜の論題がみられる今日この頃である。大学に居るはずもないmonster parents & studentsと目前の試験に翻弄される医学教育では,今後,数十年の自己学習を課せられた医学生がRest of Worldになるのは必至である。
 Rest of Worldをご存知でしょうか? 近年,将来展望もなく,二年毎に職責を放棄していく厚生官僚によって,日本の医療と医学は確実に崩壊への道を辿っています。彼らは「日本の医師は充足し,産科小児科志望の若手医師は沢山いる」と断言する。まさに「暴走官僚−エリートたちが日本を食い荒らす」(文藝春秋,新年特別号)のである。ただ唯一の光明は,卒前医学教育の国際標準化へ向けた僅かな改革である。かつて日本の世界への医学的貢献は基礎医学に顕著であり,臨床医学では職人技を重視したあまり科学的臨床研究が立ち遅れていた。その結果,日本発のエビデンスのない日本人のための診療ガイドラインが無数に作成されている。その滑稽な状況からEBMへの貢献を促進するため,臨床研究への梃子入れがなされた経緯がある。しかしこの数年,国際的貢献をしてきたはずの基礎医学教室は全国の医学部で閑古鳥が鳴きつづけ,ここでも「医学崩壊」が確実に始まっている。これら日本医学の惨状は,世界的競争が繰り広げられる国際学会へ出かけてみると一目瞭然である。世界の医学は米国(US)と欧州(EU)が牽引し,遂に日本はその他の国々(Rest of World)に包括されようとしている。経済も教育も・・・日本医学の行く末を識者は真に案じているのです。
 この一年の暗い話題を吹き飛ばし,更に一年,我々は日々精進をつづけThink globally, Act locallyを実践していきます。

 さて平成十九年(西暦2007年)は西洋医学教育発祥150年,私の母校医学部の創立150周年,記念すべき年となりました。この年,当地で国際医学史科学史会議,日本医史学会,日本薬史学会,洋学史学会が同時開催され,同窓会は医学部構内に既設「ポンペ会館」にくわえ「良順会館」を建設しました。
 安政4年(1857年)11月12日,オランダ海軍軍医Pompe van Meerdervoort(略称:ポンペ,朋百;1829~1908)は長崎奉行所西役所の医学伝習所において松本良順(奥医師;順天堂創設者,佐藤泰然の長男)以下日本人12名に対し,今日ある西洋医学講義を開始した。ポンペ自ら時間表を作成,化学や生理学など基礎医学と臨床医学を講義し,幕府への懇請によって1859年に屍体解剖実習,1861年には隔離病室,手術室,病理解剖室,厨房,図書室を完備した124床の養生所(西洋式病院)が実現した。現代の医学部と附属病院の併設である。ポンペはこの地でコレラの治療,種痘の再興,全国各地から集った伝習生133名の医学教育に粉骨砕身尽力した。この長崎医学伝習所での壮大な日本医学物語,司馬遼太郎氏は歴史小説『胡蝶の夢』(全四巻)の中で再現している。
 ポンペは,「私が病床に臨むときは必ず二,三人の学生を連れて歩いた。彼らは診療処置について記録をとった。彼らがのちにもっと進歩してきたときには,私は彼ら自身に単独で病人の治療をさせて私はそれを監督するだけにした。このやり方は大変効果的だった」と驚愕の一節(後述,"Vijf Jaren in Japan"),診療参加型臨床実習を実践していたのです。1862年,ポンペは日本を去るとき61名の伝習生に対し「私の任務を退くに際して,受講生すべてに卒業証書を手渡した。・・・第一級,学術優秀にして称賛に値する(22名)。・・第二級,学力十分にして必要な援助を与えることができる(16名)。第三級,授業は受けたるも成果十分ならず(23名),・・・」と,ポンペは最後まで医学伝習生に対し厳格であった。
 ポンペは1857年から1862年までの五年間を長崎出島で暮らし,帰国後も日本人留学生を指導した。1867年,"Vijf Jaren in Japan"(日本における五年間)を発刊,当時の日本の政治,社会,文化,医療,自身の暮らしを詳述しており学術的にも極めて貴重な資料である(「ポンペ日本滞在見聞記」沼田次郎,荒瀬進:共訳,昭和43年)。ポンペはその序文に,「日本はまさに危険な立場に立っている。しかしながら彼ら日本人は実際立派な意志と尊敬すべき決意をもって進歩の道を辿り続ける気迫を今日なお失っていない。そのためには幕府はすみやかにまた強力にたえず改革を行わなければならない。こうすることによってはじめて幕府も,西欧諸国に対して無理に日本が開放されたことを恨む必要もなくなることと確信している」と記し,1853年のペリー来航に揺れた幕府へ進言している。帰国後の1887年,ポンペは第四回万国赤十字会議の蘭国代表として参加,日本の加盟を援助している。ポンペは真に日本を愛したのです。
 ポンペが日本に残したのは,脈々と朽ちることのない社会に資する人材であった。ポンペの薫陶を受けた医学伝習生は全国に散り,明治維新の医政と日本医薬学を牽引し今日に至っている。松本良順,佐藤尚中(泰然の継嗣),長与専齋,緒方惟準(洪庵の次男),相良知安,上野彦馬・・・ポンペに化学を学び写真術を研究した日本初の写真家,上野彦馬は江戸時代初の化学書『舎密局必携』を出版した。彦馬はポンペ講義録『朋百舎密書』を底本としている(舎密=せいみ=Chemie=化学)。彦馬宅に下宿し実験助手として働いたのが長井長義(阿波蜂須賀藩医官,琳章の長男)である。長義は『舎密局必携』を手に彦馬に化学を学び,ドイツ留学後にエフェドリンの発見と合成に成功,東京大学で化学と薬学の教授に就任し1880年,日本薬学会を創立した(日本薬学会長井記念館,徳島大学長井記念講堂の由来)。ポンペは日本薬学会の祖といっても過言ではない。いま150年のときを経て,ポンペの心は生きつづけている。
 ポンペと松本良順,医学伝習所での日本医薬史に残る偉業は,司馬遼太郎氏の『胡蝶の夢』(全四巻),吉村昭氏の『暁の旅人』など歴史小説によって,永代まで語り継がれることになる。





ポンペ会館


良順会館