川崎医科大学附属病院 広報第118号(2004年11月15日発行)
医学講座
医学邦語と実証主義科学の原点『解体新書』の裏話
内科(呼吸器) 部長
岡 三喜男
医療にたずさわるようになると,改めて「医学教育は解剖で始まる」との感を強くする。我々が日々使っているその医学邦語の原点はどこにあるのだろう。その原点は遠い昔,何気なく試験のために憶えた中学校の歴史教科書の中にあります。江戸時代,杉田玄白と前野良沢は解剖書「ターヘル・アナトミア」の訳本『解体新書』(1774年)を刊行したと記憶している。元来,原書「ターヘル・アナトミア」(1732年)はドイツの解剖書でヨハン・アダム・クルムス著となっており,良沢らはこのオランダ語訳本(1734年,ヘラルズス・デイテン訳)を3年もの歳月をかけ邦訳したのです。この途方もない大偉業は,辞書もない時代にどのようにしてなされたのであろう。訳者のひとり杉田玄白は晩年83歳にして,その回顧録『蘭学事始』(1815年)にその無謀な決意を,「かのターヘル・アナトミアの書にうち向ひしに,誠に艫舵(ろかじ)なき船の大海にのり出だせしが如く,茫洋として寄るべきかたなく,ただあきれにあきれて居たるまでなり」と記している。あの福沢諭吉は偶然に出会った『蘭学事始』に感涙し,復元出版するにいたった。しかし,不思議にも『解体新書』の訳者のなかに中心人物であるはずの前野良沢の名はない。この日本史に残る大偉業,我々の医学の原点『解体新書』の裏話にせまります。
寛大な藩主と「ターヘル・アナトミア」
時はまさに漢学から蘭学へ動き始める頃である。豊前国(大分県)中津藩医である前野良沢は漢方医として江戸詰めの身で,オランダ(阿蘭陀)語に興味をもち当時の阿蘭陀語研究者として名声をえていた青木昆陽に師事した。この時,良沢はすでに47歳であった。僅かの阿蘭陀語をおぼえた後,藩主・奥平昌鹿候のお供で中津にもどった際に,長崎への遊学を申し出て許可された。決して裕福ではなかった中津藩であったが,遊学に理解を示した寛大な昌鹿候は遊学費を良沢に与え長崎へ見送った。長崎に着いた良沢は早速,江戸で知り合った阿蘭陀語大通詞(通訳)・吉雄幸左衛門(耕牛)に師事し,一心不乱に阿蘭陀語の習得に励んだ。吉雄家は代々オランダ語通訳を生業とする家系で,吉雄幸左衛門は若くして通訳の最高位である大通詞へ登りつめた人物である。ある日,幸左衛門は偶然入手した「ターヘル・アナトミア」を良沢にみせ,良沢は残りの遊学費をはたいてこの高価な洋書を購入した。
一方,若狭国(福井県)小浜藩医である杉田玄白も江戸詰めの身で,オランダ語に興味をもち始めていた。その頃,訳者の一人である同郷の中川淳庵が江戸の阿蘭陀人定宿である長崎屋から「ターヘル・アナトミア」をもち帰り,これをみた玄白は異常なほど興味を示した。高価な「ターヘル・アナトミア」は家老・岡新左衛門の仲介で,良沢と同様に藩主・酒井忠用によって購入が許可された。
こうして良沢と玄白は偶然,藩主の寛大な心によって,各々違った処で,時を同じくして「ターヘル・アナトミア」を手にしたのです。
良沢,玄白,ターヘル・アナトミア,運命の出会い
漢方医学では昔から人体「五臓六腑」と言われ,正確なものではありませんでした。江戸時代から系統的な解剖ではないが,「腑分け」と称して刑場で人体解剖が行われていた。ある日,腑分けが公開されると聞き,玄白は旧知であった良沢を誘って刑場に向かった。そこでは大罪を犯した老女の死体があり,二人は偶然にも「ターヘル・アナトミア」をもって腑分けに臨んだのである。まさに良沢・玄白・「ターヘル・アナトミア」,運命の出会いの一瞬である。そこで老女の解剖体と「ターヘル・アナトミア」の解剖図が全く一致していることに驚き,無言の帰宅後に三人(良沢,玄白,淳庵)は「良沢を盟主と定め,先生とも仰ぐこととなしぬ」(蘭学事始)と,その翻訳を決意したのです。良沢49歳,玄白39歳,淳庵33歳のときである(1771年)。ろくに辞書もないこの頃,最もオランダ語に精通していたのは良沢ただひとりであり,その翻訳作業は想像を絶するものでした。
盟主「前野良沢」の名がない『解体新書』
3年の歳月を経て,玄白は訳本『解体新書』(1774年)を世に出すことを提案した。しかし,定かではないが良沢は自らの拙訳を世に出すことを拒んだとされる。ここに「不思議にも解体新書の訳者のなかに前野良沢の名がない」ことの理由がうかがえる。結局,杉田玄白(訳),中川淳庵(校),石川玄常(参),官医・桂川甫周(閲)と記されているが,良沢をはじめ多くの人がこの翻訳に関わっていた。しかし,『解体新書』の序文の中に良沢の名を見つけることができる。この序文は最初に良沢へ依頼されたが,固辞したとされる。その後に依頼された吉雄幸左衛門は,「良沢が真の学究者であり」また「良沢なくして,この訳本なし」と良沢を激賛している。
良沢は『解体新書』の後,奥平昌鹿候の寛大な計らいもあり蘭学に没頭し,いつのまにか号を『蘭化』と称するようになったが,その生涯は恵まれたものではなかったらしい。一方,玄白は『解体新書』で名(蘭方)医となり多くの門下生をえて,号を『九幸(翁)』と名乗ったほどである。
おわりに
日本最初の邦訳本『解体新書』はこうして世にでることとなり,我々の医学の原点となったのです。また,このことは「事実を証し厳密に記述する実証主義科学」の本邦における出発点ともいわれています。この大偉業での「良沢,玄白,ターヘル・アナトミアとの運命の出会い」と「学問の奥の深さ」にただ感激するばかりです。
先週,偶然出会った吉良枝郎名誉教授(元自治医科大学,順天堂大学呼吸器内科教授・医学部長)から自著「日本の西洋医学の生い立ち」(築地書館)が送られてきました。いま享受しているわれわれの西洋医学の生い立ちを知ることは,忙殺される日々の中で一服の感があります。この医学講座が読者の一服になれば幸いです。
1.「冬の鷹」吉村 昭,新潮文庫,1976
2.「日本の西洋医学の生い立ち」吉良枝郎,築地書館,2000
3.「蘭学事始」杉田玄白(著),緒方富雄(校),岩波書店,1962
4.「蘭学事始」杉田玄白(著),長尾剛(訳),PHP研究所,2004
5. 新装版「解体新書」(全現代語訳)酒井シヅ,講談社学術文庫,1998
6.「蘭学事始」杉田玄白(著),酒井シヅ(訳),講談社,2004