「イチローの涙」

岡 三喜男


 この正月は雪が舞い,久しぶりに厳寒の正月らしい天候であった。去年が暖冬だった所為かもしれない。ここ数年,年末年始は何ごともない静かな正月を迎えていたが,この年末は久々に出会いと感動の場面に出くわした。その一つが「イチローの涙」だった。その後,何度かイチローの涙がテレビに放映され,恐らく多くの人達がそれをみていた。もうこの世に不出の天才努力打者の涙である。
 イチローの私生活が,一部ではあるが公の場に登場したのは初めてである。イチローの野球に全てをかける日々の一端を垣間見,予想どおりであった。米国へ渡って7年間,自宅でのbrunchは毎日,愛妻弓子さんの特製カレーライス一杯であった。彼なら当然の日課,やはりそうかと私は納得した。これまで見聞してきた偉人達人は毎日,同じ時間に同じ行動を計ったように自然体でこなしていたからだ。遠征にはいつもの蕎麦殻の枕,フットマッサージ器,栄養ドリンクを携える。プロスポーツの世界では「結果が全てである」,「結果責任は全て自らに在る」ことを選手は自覚し,堂々と毎日の試合に臨む。このことはプロと言われる仕事人に共通し,社会の教育目標の一つ「自立」でもある。イチローはその究極点に立っている。蛇足だが,私は受けた教育の良悪を時々,言われたこと,社会通念で決められたことを確実に自らできるかで判断している。これは社会や組織秩序維持の根幹であり,信頼の証でもある。しかし悲しい現実が日々の眼前に横たわっている。
 イチローは昨年,狙っていた?アメリカン・リーグ三年ぶりの首位打者の座を逸した。その首位打者はMagglio Ordonez(Detroit Tigers)選手だった。しかしイチローの成績は,下段の表に示すようにほぼ全試合に出場,両リーグ最多の年間安打数238本と打率3割5分を越え,並の選手には到底に達成不可能な数字を残している(個人的見解ではイチローに軍配を挙げたい)。なのに何故イチローは涙したのか,詰め寄る問いに何度も「分からない・・・」とイチローは答えていた。むしろ彼は「答えたくない」と私は思った。4割打者への試金石として(私見)年間目標を立て堂々と全試合に出場,むしろ自らに目標を課し,経過はどうあれ,前述の「結果が全てである」と「結果責任は全て自らに在る」をイチローは痛々しいほど分かっている。
 イチローは1991年,当時のオリックス・ブルーウェーブに4位で指名され入団,1994年にレギュラー選手として抜擢され全試合出場,行き成り前人未踏の年間安打数200本越え,しかも210本の日本新記録を達成した。それまで二年間の成績は1992年40試合出場24本安打,1993年43試合12本であった(当時、年間公式130試合)。彼が師とあおぐ仰木彬監督の「選手は自分の記録のことを考えろ,チームのことは俺に任せろ」の言葉に刺激され,1994年以降は打率3割を継続,2000年には歴代二位の打率3割8分7厘を残し,翌2001年にMLBのSeattle Marinersへ移籍した。移籍後も打率3割越えを継続し,2004年には年間安打262本を放ち,MLBの公式記録を84年ぶりに更新する大記録を樹立した。
 イチローの打撃は,プロの目からどう映るのだろう。MLB観戦の醍醐味と楽しさは日本プロ野球と比較にならない。試合開始前に全員起立しての国歌斉唱は異国人にとっても身震いする。野球好きの私もMLB観戦は留学時と米国出張の度に幾度となく経験,あのSammy Sosa(Chicago Cubs)のコルク・バット事件(Wrigley field in 2003)では偶然にもバックネット裏で観戦しビデオ撮影していた。ある年,プロ野球解説者K氏(広島カープ出身)とシカゴ便で隣席する機会があった。ここぞとばかり「プロからみたイチローの打撃はどうですか?」と問い,「いかなる球種とコースでもバットをボールに対し直角に当てる技術をイチローは持っている」とK氏は解説した。よく云われる「ボールに逆らわずに打ち返す」基本を忠実に実践していることだが,それにはバットの回転速度を落とさず自由自在にバットをコントロールする神業が要求される。往年,「安打製造機」と呼ばれた張本勲氏(東映フライヤーズ)の「扇打法(広角打法)」に匹敵するものである。神業には身体とバットが一体になることが必須であり,イチローは岐阜で製造されるイチロー専用バットを15年間(入団時から)愛用している。
 イチローがこれから目指すものは4割打者しかない(勝手な期待)。日本人には未踏の4割である。MLBには十数人が4割打者に名を連ね,最高打率はNap Lajoie(Athletics in 1901)の4割2分6厘(131試合),しかし1941年Ted Williams(Red Sox,143試合)以来MLBにも4割打者はいない。

 イチローに我々の夢4割打者を課すのは酷だろうか?
 イチローには別の涙が似合うのだ。

平成二十年二月


2007 シーズンイチローMagglio Ordonez
出場試合数161/162157/162
打席数678595
打席/試合4.213.79
安打数238216
打率0.3510.363