2006 川崎医科大学学報(学生版第4号,平成18年6月27日発行)

『ヒトと生物,人と動物』

内科学(呼吸器),新5学年担当
教授  岡 三喜男


 最近,余暇に動物記をみることがある。動物記は,医学を学んだものにとって生物の本能に触れる身近な画像である。小虫から哺乳動物まで,あくまでも生きるための術(すべ)を身をもって子孫へ伝えている。生物によって時期は異なるが,深い愛情で育てた子供達を自立させるため,無情にも突き放す,時には崖から突き落とす親の姿には感涙してしまう。突き放たれた「子供達は,親たちを後に力強く飛び立っていく」のである。飛び立った子供達は当然のごとく自立し,自らの家庭を築く。これらの行動は考える脳をもった生物が誕生して以来,繰り返されてきた生物の本能と理解している。当然,「脳をもった生物であるヒト」もその本能を具備(ぐび)しているはずである。
 一方,社会で人が精神的自立を意識し始める時期,私見では高校卒業ないし自身の進路を決定した時ではないかと考えている。医師をめざした時でもある。当然,親もそのことを強く意識すべきであり,自立を期待しているはずである。とくに医師は,肉体的にも精神的にも病める人達(患者)を診る天職として,社会は自身の命を託す医師に対して,「医師は際だって自立した人であるべき」と考えている。その結果,納税者である国民は全医学教育に多額の税金を投入している。私が留学した米国の研究所では常時,将来,医学部進学をめざす中高校生や大学生が実績とボスの推薦状を求めて,休暇を問わず研究室で真剣に働く姿が強く印象的であった。彼らの目は輝き,医師をめざした時,既に自立していたのです。
 しかし日本の現実は・・・最近,いつの間にか貧しい社会欲がヒトの本能までもねじ曲げている事件が多くみられる。社会環境がヒトの本能を変えてしまった瞬間である。市井(しせい)では,表現はともかく「人は本能を忘れ,畜生以下になりさがった」と,よく耳にする。ヒトが人へ進化し,悲惨にも最悪のシナリオへ向かっている。
 最高学府で自ら学ぶ使命を負った医学生には幸い,「ヒトと人」の違い,「遺伝子と環境」を現実として考える絶好の機会が与えられている。