川崎医科大学「研究ニュースNo. 66」(2005年9月発刊)

「倉敷への道中医学史随想」

内科学(呼吸器)
岡 三喜男


 この随想は長崎から倉敷への道中記の一部である。平成16年3月31日午後,私たち夫婦は杖を片手に見送る母と別れ,長崎駅を後に倉敷へ向かった。やっと慌ただしさが去った車中,思い出していたのは『歴史の影絵』(吉村昭)の小題「洋方女医楠本イネと娘高子」,蘭方名医の宇田川玄随,『緒方洪庵の蘭学』(石田純郎,岡山県在住医学史家)であった。いずれも蘭方医学史に登場する岡山に縁ある事柄であった。宇田川玄随(津山藩)は『解体新書』刊行の貢献者,桂川甫周の愛弟子であり,わが国最初の西洋内科書『西説内科撰要』などの翻訳に関わった。緒方洪庵(足守藩)については,ここで今さら言及する必要はない。
 赴任して最も驚いたのは,早島でご開業の木村丹先生(呼吸器内科同門)が日本医学史の研究者であったことです。先生は,新知見を日本医学史学会で発表されるほどの研究家である。数年前,母校ポンペ同窓会館での日本学術会議第七部会(免疫・感染症)の手伝いをした折,斎藤寛,医学部長(現,長崎大学長)の感動的な講演を機に,長崎出島を舞台にした医学史に興味をもち始めていた。ある時,「歴史に興味をもつようになると年寄りだ!」と,浅学の先輩医師に言われてしまった。街の本屋に行くと,何時しか医学史関連の書籍へ自然に足が向くようになっていた。日頃,何冊も積ん読して夏期と年末休暇で一気に速読するのが常で,ときに積ん読の中に思いがけない感動をみつけ独りよろこんでいた。これがいつの間にか「父さん,プチ歴史家」と,娘に揶揄される所以である。
 とくに驚愕の一節は,「イネには高子という娘がいる。高子はイネと石井宗謙の間に生まれた。高子については,「イネが宗謙に嫁し」て生まれたと書かれている書物が多いが,それは誤りである」(吉村昭)。つまりイネは,不幸にも宗謙の子・高子を身ごもってしまったのである。楠本イネは,シーボルトと遊女おタキさんの間に生まれ医学を志して父の門人,二宮敬作(愛媛県東宇和)と石井宗謙(岡山市)に学び,さらにポンペに師事し産科医として大成した。
 日本医学史の一端を垣間見て,調査を重ねあくまでも史実を追究し考察する史学と,人の幸福を追求して止まない医学との融合の中に,人として臨床医として研究者としてあるべき本来の姿をみることができる。
 この夏,積ん読の中で新鮮な感動との出会いを楽しみにしている。