長崎大学医学部第二内科 開講100周年記念誌 寄稿 2023.12
「100年の歴史と近未来」

川崎医科大学 免疫腫瘍学
特任教授 岡 三喜男

 1923年に長崎大学医学部第二内科が開講し、この度100年周年を迎え誠におめでとうございます。この100年間、第二内科からは多くの医師、研究者、教育者を輩出し、いま感染症学を中心に全国で最も多くの医学部教授を輩出している教室のひとつになっています。これは次の100年を担う医療人を全国で育成していることに他なりません。われわれ長崎大学第二内科を出自とする者にとって誇らしくもあり、これから長崎大学医学部第二内科の更なる発展を期待するところです。
 開講100年の原点は、歴史的に長崎大学医学部の西洋医学教育への情熱と熱意にあると感じています。第二内科開講から遡り100年前の1823年、Philip Franz B. von Siebold(1796-1866)が来浮オ、日本最初の欧州人による私学校の鳴滝塾を開き、西洋医学の診断法と治療法を全国の日本人医師に教授しています。感染症についても1848年、Otto Gottlieb Johann Mohnike(1814-1887)が痘苗と木製聴診器をもたらし、日本の天然痘撲滅に貢献しています。長崎大学医学部は1857年11月12日、医学伝習所において学祖のオランダ商館医Pompe van Meerdervoort(1829-1908)による日本初の西洋医学講義をもって開学としています。1861年にはPompeの請願により日本初の西洋式病院「養生所」が開院し、先進的な隔離病棟を設置してコレラや天然痘などの感染症に対する治療と教育にあたっています。医学部開学以来166年の西洋医学教育の歴史の中で育まれ、長崎大学第二内科が開講し現在に至っています。1945年8月9日、医学部近隣に原子爆弾が投下され約850名の学生と職員が犠牲となりましたが、10月には講義を再開しています。医学部廃校もやむなしの中で長崎大学医学部も第二内科も再興を果たしていることに、いまさらながら感涙する思いです。
 私自身(在籍1979-2003年)、第5代原耕平教授の就任5年目に同期16名と共に入局し、第二内科100年の歴史の四半世紀を医局で過ごしました。いま「医局は死語」となっていますが、入局時は原教授が感染症グループを立ち上げられ、精力的に活動されていた時期でもあり、医局の規模は西日本随一とも言われていました。当時の第二内科には、呼吸器(感染症、免疫、喘息、肺がん)、消化器(消化管、肝臓、膵臓)、循環器、腎臓、糖尿病グループがあり、研修医は各グループを巡回して各疾患を学んでいました、いまの総合診療部にほぼ匹敵する規模です。最も人気があったのは消化器グループでしたが、私は最終的に肺がんグループに席を置きました。私は当時としては珍しく放射線科を回って上部消化管透視を教えてもらい、全国に先駆けて行われていた集中読影室で各臓器の画像診断を学びました。この経験が当大学での「日本初の咳外来」での副鼻腔画像読影に大いに役立ち、その後「医学の小さな学びに無駄はなし」との思いは強くなりました。いま医局や関連病院の制度が崩壊していくなか旧態依然と称されますが、関連病院での勤務は臓器を問わず先輩医師が若手医師を全人的に教育する絶好の機会と考えています。
 私は五島福江市(現、五島市)2年間と高知県中村市(現、四万十市)3年間へき地医療を経験した後、原教授の勧めもあり米国立癌研究所へ留学し「医学の多様性」と「医学は世界の病める人のためにある」ことを実感し、今の私があります。2004年、当大学(1970年創立)の呼吸器内科教授に就任後、原教授から幾度となく「皆んなと仲良くしなさいよ」との金言を頂戴し、いまもその教えを守っています。私事は第二内科100年の歴史の中の一齣ではありますが、改めて長崎大学第二内科の寛大な人育に感謝し、これからも末永く人育に邁進されることを願っています。
 さて100年前、日本の人口は5600万人、平均寿命42歳、高齢者は約5%、いまの人口と寿命の約半分ですが、いま高齢者は約30%を占めています。私事ですが、母親が7月に大病もせず101歳で眠るようにこの世を去りましたが、100年はヒト寿命の限界点と実感しました。この100年間、医療は人術からコンピュータを駆使したデータサイエンスに基づいて進歩かつ進化していますが、ヒトの全能力が飛躍的に伸びているとは言えず、現状を見る限り生物学的本能や倫理道徳観念は急速に劣化しています。戦後、急速に豊かさを享受した日本社会の衰退を憂いているのは、私だけでしょうか?いま国内使用の抗菌薬は中国製が多くを占め、医薬品不足が常態化しています。先日、老体に鞭打って国際学会で発表してきましたが、日本からの発表と参加者は激減していました。日本は人口減少と社会経済の衰退が徐々に見え、いまや韓国にも追い越されそうで、到底、医療の進歩だけが国内的に生き残れるとは考えられません。
 これから100年いや50年、第二内科がどう飛躍できるか?皆で議論する時です。