「ワクチンの起源と進化」

 いま猛威を振るっている新型コロナウィルス感染症(SARS-CoV-2)は、人類にとって百年に一度と言われる脅威の世界的大流行(pandemic)です。過去のパンデミックをふり返って、いまこのパンデミックに対し、人類そして世界の指導者達はどう対応するのか?問われています(1)。
 1918年、スペイン風邪(Influenza A, H1N1)のパンデミックによって、人類は数千万人もの犠牲者を出しましたが、その約20年後に予防ワクチン接種が始まり、さらに約60年後にはタミフルを代表とする抗インフルエンザ薬が開発されました(2)。因みに、スペイン風邪の病原体であるインフルエンザウィルスは、1997年、米国アラスカ州の凍土から掘り出されたイヌイット族の土葬遺体(スペイン風邪で死亡)から、初めて分離されその正体を現したのです。そして2005年、そのインフルエンザウィルス(Influenza A, H1N1)の遺伝子解読が完了しました。
 さらにスペイン風邪から約100年以上前に遡ると、後述する天然痘(smallpox)のパンデミックとワクチン起源の歴史を知ることができます。これらパンデミックの歴史を辿ると、その病原微生物の発見からワクチンの開発には、麻疹で約15年、ポリオで約40年、エボラ出血熱で約50年を要しています(2-3)。一方、がんの約15%は感染症(慢性炎症)から発生しますが、子宮頸がんを予防するHPV(human papilloma virus)ワクチンは、その開発に約20年を要しました。しかし驚くことに新型コロナウィルス感染症のワクチンは、開発から約10ヶ月で実用化され、光速ワクチン(lightspeed vaccine)といわれる所以です(3)。
 さて、新型コロナウィルス感染症のワクチン開発は、どうして迅速に行われたのでしょう?2019年末、中国湖北省・武漢市で小規模に発生した新型コロナウィルス感染症は、瞬く間に世界規模の人流によってパンデミックへと進展しました。しかし翌年の2020年1月には、新型コロナワクチン(BNT162b2 mRNA vaccine, Pfizer/BioNTech)の開発が密かに進められていたのです。その開発の舞台裏には、長年に渡るがんワクチン研究の成果が生かされていたのです(4-6)。
 がんは遺伝子病と言われ正常細胞には存在しない、がん細胞に特異的な遺伝子変異(変異タンパク)が、がんの発生と進行に深く関わっています。そこで、がん治療に抗原となる変異タンパクや変異ペプチドをワクチンとして用いる多くの臨床研究が実施されてきました。一方、BioNTechの創設者Drs. Sahin U & Türeci Ö夫妻は、がん細胞の変異ペプチドをコードするmRNAを投与し、体細胞内で変異タンパクを作らせる画期的な方法を十数年の歳月をかけて発明しました。一般に、投与したmRNAは生体内で容易に分解されるため、mRNA合成に工夫を凝らし、さらにmRNAを人工の脂質小胞膜(リポソーム)に封入することによって分解を回避したのです。これらの技術の結晶が、今回のコロナワクチン(BNT162b2 mRNA)の迅速な開発に繋がったのです(4-6)。
 2021年4月、米国癌学会総会においてDr. Sahinは「mRNA vaccine」と題した講演で「光速ワクチンプロジェクトは効果的で安全なワクチン開発への10ヶ月の旅」とし、mRNAワクチンについて広範な応用性、自由自在な設計による個別化、新規変異株へ迅速な対応などを利点としてあげています(7)。しかし最終的な目標は、がんに対する個別化ワクチンの開発としています。
 ワクチンの起源から約220年の時を経て、人類は幾度の感染症の脅威を経験し、更なる脅威を克服すべくワクチンは進化し続けています。

2021年6月25日
岡 三喜男


(文献)

  1. Bill Gates. Responding Covid-19 - a once-in-a-century pandemic? NEJM 382:1677, 2020
  2. Plotkin S. History of vaccination. PNAS 111(34):12283, 2014
  3. Vaccine innovation. Nature 589 (7840), Jan 7, 2021
  4. Sahin U, Türeci Ö. Personalized vaccine for cancer immunotherapy. Science 359:1355, 2018
  5. Sahin U. mRNA-based therapeutics - developing a new class of drugs. Nat Rev Drug Discov 13:759, 2014
  6. Grabbe S, Sahin U, et al. Translating nanoparticulate- personalized cancer vaccines into clinical applications: case study with RNA-lipoplexes for the treatment of melanoma. Nanomedicine 11:2723, 2016
  7. Ugur Sahin. “mRNA vaccine” in COVID-19 and Cancer, AACR2021 annual virtual meeting, April 10-15, 2021

以下、私の著書「読んでみてわかる免疫腫瘍学」(中外医学社、2017年)の「ひとやすみ」から引用して、ワクチンの起源と日本のワクチン接種の歴史的秘話について記載しました。

【Jennerと種痘伝来、そして種痘の普及】

 「近代免疫学の父」と称されるEdward Jenner(英国、1749-1823)は、種痘つまり天然痘ワクチン(smallpox vaccine)の開発者として人口に膾炙されている。世界初の種痘は1796年、Jennerの使用人の子で8歳のJames Phippsに接種された。種痘には人痘法と牛痘法があり、Jenner が接種したのは牛痘、乳搾りのサラ・ネルムス嬢の手背の膿で、その約6週後に天然痘を接種しても発症しなかった。牛痘種痘の開発から75年後、免疫の「一度罹ったら、二度は罹らない」二度なしの一般法則(免疫記憶)は、Louis Pasteur(仏国、1822-1895)によって確立された。そして1980年、世界保健機構(WHO)は天然痘の根絶宣言をしたが、すでにJennerは著書「種痘の起源」(1801年)の中で種痘による天然痘の根絶を予言していた。

Edward Jenner(英国、1749-1823)
 Jennerは、英南西部の田舎町Berkeleyで生まれ、医者修行を積んだあと、1773年にBerkeleyで開業し、評判はかなり良かったようだ。この頃、英国では天然痘の予防として人痘法つまり天然痘の膿を接種していたが、ときに発症して死亡する例もあった。当時、Jennerも田舎の人達に頼まれて人痘を接種していたが、その中には全く接種に反応しない(無症状)人がいることを経験した。調べてみると人痘に反応しない人は、乳房に膿疱がある牝牛の乳搾りをして牛痘(cowpox)を罹った女性達であることに気づいた。乳搾りの女性達の間では、この現象がすでに漠然と知れ渡っていたが、牝牛から伝染する病変は全て牛痘と呼ばれていた。しかし実際には、伝染しても人痘に反応する人もおり、「真の牛痘」と「偽の牛痘」があると考えた。結局、真の牛痘に罹ると人痘に罹らない(交叉免疫)、しかし牛痘が個体間で接種可能なのか?、さらに実際に人痘予防ができるのか?に至った。そして約18年間の臨床研究の末、サラ・ネルムス嬢の手背の膿(牛痘)をPhipps少年に接種したのです。
 Jennerは1798年に、牛痘接種の43例をまとめて「牛痘の原因および作用に関する研究」として論文報告していますが、周囲の理解を得るのは難しかったようです。しかし、1800年頃からは牛痘法の有用性が認められるようになり、世界へ広まったそうです。現在のワクチン(vaccine)の語源はラテン語の牝牛(vacca)に由来し、当時の牛痘(vaccinia)の呼称からPasteurが「vaccine」と命名したそうで、ちなみにワクチンは邦語で「白神」と記す。
 では日本の天然痘と種痘の歴史はどうだったのか、少し歴史を辿ることにする。本来、日本には天然痘は存在せず、中国や朝鮮など大陸から流入し、730年頃に大陸に接する九州地域で最初に流行した記録がある。その後、全国に広がり何度となく大流行を起こし、その度に多くの犠牲者をだしたため人痘法が経験的になされていた。当時、天然痘は痘瘡と呼ばれ、乳幼児が罹ると致死率は50%を越え、回復しても顔に痘痕(あばた)が残った。Jennerの牛痘法が公式に全国へ広まったのは、開発から50年後の1849年に長崎出島商館医Otto GJ Mohnike(独国、1814-1877)が牛痘(実際は痘漿や痘痂)を持参し、痘苗の植え継ぎに成功したのが始まりです。それ以前の1823年に、Philipp von Siebolt(シーボルト)も牛痘を持参したが継代に失敗したようだ。1848年、Mohnikeも牛痘接種に失敗、この時にMohnikeは日本最古の聴診器(ラエネック型木製聴胸器)を持参し、いまも私の母校長崎大学医学部に保存されている。


Otto Gottlieb Johann Mohnike(独国、1814-1877)
(中外医事新報より)
 Mohnikeは最初に3児に痘苗を接種したが、医師楢林宗建の三男健三郎にのみ美痘がみられ、次々に長崎の子供たちに接種され、瞬く間に約半年で全国へ広がった。楢林宗建(1829-1852)は肥前(佐賀)藩の御番方医師で出島の医師でもあり、藩主の鍋島直正公から牛痘取り寄せの内意があった故、早速に牛痘継代の知らせを送った。直正公は天然痘の既往があり、顔に痘痕が残っており種痘に対し人一倍思い入れが強かったと推測される。楢林宗建は直正公の命により、世継ぎ淳一郎君の腕に自身の子栄叔の痘苗を植え継ぎ、これを見た藩民は藩主に模して種痘を広めていった。佐賀藩の牛痘は江戸にも運ばれ、直正公の娘貢姫にも伊東玄朴(蘭方医)によって接種され、これを桑田立斎へ渡し江戸一円にも牛痘法が広まったとされる。また宗建は京にいた兄栄健にも牛痘を運び、関西一円さらには笠原良策によって福井にも広め、小説「雪の花」(吉村昭)の題材ともなっている。
 楢林宗建は牛痘接種を広めるため、接種法を図と共に詳細に解説した「牛痘小考」を著し普及に貢献し、さらに「磨尼缼(Mohnike)對談録」には1848年の牛痘伝来の詳細を記し、Mohnikeからクロロホルム麻酔についても伝授されたことを記している。楢林宗建は、長崎の大通詞(通訳の最高位)楢林鎮山の孫にあたり、医師の家系に育ち早くからシーボルトに西洋医学の教えを受けている。Mohnikeは医学の他に昆虫学や魚類学にも精通し、優れた博物学の著書があり、タツノオトシゴHippocampus Mohnikei BlkrなどMohnikeの名前を冠した昆虫や魚類が数多くある。
 Pompe van Meerdervoort(蘭国、1829-1908:在日1857-1862)は、日本の「近代西洋医学教育の父」と称され、長崎大学医学部の学祖でもある。Pompeは、医学伝習所で西洋医学講義を始め、日本初の西洋式病院養生所を建て診療と臨床医学教育に情熱を注いだ。Pompeの帰国後に記した回顧録「日本における五年間」には、種痘に関して自らの診療録も含め、当時の日本における天然痘の現状を詳細に記載している。
 Jenner、Mohnike、楢林宗建、Pompeの凄まじいほどの臨床医学にかけた情熱には、ただただ感服する。日本の若き臨床医諸君にも、彼らに学び、そして未来の医学を担って欲しいと祈念している。

(文献)
  1. 沼田二郎、荒瀬進(訳):ポンペ「ポンペ日本滞在見聞記」、雄松堂、東京、1968
  2. 吉村昭:「雪の花」、新潮文庫、東京、1988
  3. 深瀬泰旦:「天然痘根絶史」、思文閣出版、京都、2002
  4. 相川忠臣:「出島の医学」、長崎文献社、長崎、2012(貴重な歴史資料が豊富)
  5. 中込治:サラ・ネルムズ嬢の腕、Medical Tribune 2013年5月9日号、p40
  6. 岡三喜男:「読む肺音、視る肺音、病態がわかる肺聴診学」、金原出版、東京、2014

【Pompeの日本種痘録】

 Pompe van Meerdervoort(蘭国、1829-1908:在日1857-1862)は1857年9月21日夕刻、江戸幕府がオランダに建造を依頼したヤパン(Japan)号に乗って、第二次海軍伝習教官および出島のオランダ商館医として、長崎港に到着した。ヤパン号は到着後に幕府へ引き渡され「咸臨丸」と改名され、1860年に艦長格の勝海舟以下90余名が日本最初の太平洋横断を果たしている。
 Pompeは長崎港に到着した様子を甲板に立ち、「絵のように美しい長崎湾の風景を眺めたが,乗組員一同は眼前に展開する景観に,こんなにも美しい自然があるものかと見とれてうっとりしたほどであった。神ならぬ身,いかなる運命に巡り合うかもしれないことであるが,本当にここで二、三年生活することになっても悔いるところはないという気になった」(「ポンペ日本滞在見聞記」の一節)と、感慨にふけった(文献1)。
 日本初の西洋医学教育は、1857年11月12日(長崎大学医学部創立記念日)、Pompeが医学伝習生12名に対し、長崎大学医学部の前身の医学伝習所での西洋医学講義に始まる。1861年、Pompeは江戸幕府の許可を得て長崎の地に日本初の西洋式病院養生所を建て(開院9月20日)、診療と臨床医学教育に情熱を注ぎ、Pompeの薫陶を受けた伝習生達は全国で現代医学と薬学の礎を築いていった(文献2)。
 Pompeの回顧録「日本における五年間」には、種痘に関し極めて詳細に記している。自ら牛痘接種を精力的に行い、その証拠として、長崎出島の発掘では、多くの子牛の骨が発見されている(文献1)。

〜ここからポンペ著「ポンペ日本滞在見聞記」から引用〜(文献1)
 「1849年に軍医将校ドクトル・モーニッケDr. O. Mohnikeがふたたびこの種痘を取り上げて、長崎に規則正しい種痘業務を組織し、たえず厳重な管理を行った。彼はたえずよい痘苗が入手できるように痘苗のストックに注意し、また痘苗を日本の他の地方にも送り得るように注意を払った。モーニッケ氏が日本滞在中はもちろん、その後彼が帰国してからも、すべては規則的に運営された。彼の後任のドクトル・ファン・デン・ブルックになってからは、さらにそれ以上にこの種痘について多くのことを行う機会がなかったようで、少なくとも彼の滞在中は、種痘はふたたび衰微した。痘苗も新鮮なものが入手困難となり、そのため人間から人間にと引き継いで行われるだけで、なんら監督が行われなくなったからである。そのために痘苗は古くなり、その予防力もなくなり、したがって民衆の信頼もなくなった。天然痘はふたたび激しくなり、1854年及び55年にはおびただしい死者が出た。それも一つには天然痘患者に対する看護の方法が悪かったことが大いに影響している。患者がまだ完全に治癒していないのに、早々に患者を病床から起し病室から出す、いやそれどころか、屋外に出すことさえ許したからであった。
 1858年1月になると、また天然痘が再発して、かなり広く蔓延した。当時長崎には痘苗が皆無だった。幸いにも私はシナから(一宣教師から)痘苗を少しばかり入手することができたので、これをもって種痘を開始した。またそれをもとにして痘苗の培養増殖に努めたが、その際、幕府はそのために数頭の牛を提供してくれたので、幸いにも目的を達することができた。そのうえまた私はオランダ領東インド政府の医務局長に申請して、まもなく良質の痘苗を入手した(オランダ領東インドでは種痘についてきわめて周到な注意を払っていた。したがって種痘業務の組織は同地方では非常に優れていた)。こうして私は非常に強力に仕事を進めることができ、日本各地に送るに十分なくらいの多量の痘苗を集めることができた。それにつれてふたたび痘苗の予防力も増加し、また日本人の信頼も増し、まもなく熱心に種痘が行われるようになったことを述べておかねばならない。
 1858年に私は218名の小児に種痘を行った。1859年には約1,300名に種痘をしたが、それは信頼が非常に増大した証拠である。私は各地で行った種痘の結果を私に返事するという条件のもとに、各地にできるだけ多くの痘苗を送ってやった。そしてそのために小さな雛型となる表をつくった。ある程度均一な数字を得て、それから統計をつくるという目的からである。日本の医師諸君は非常に正確に私の希望を満足させてくれた。しかし医師諸君の報告によって、まだまだ多くの種痘が失敗に終わっていることもわかった。すなわち、以前に種痘をしていない人の全数の三分の一が失敗しているのである。その原因はいろいろあるが、種痘技術そのものが適切でないこと、着物の大きい袖がせっかく種痘したところを摩擦すること、たびたび入浴しすぎること、特に種痘直後の入浴が失敗の原因としてあげられる。病院が開院してからのちは規則正しく一週に一度病院で種痘を励行した。たくさんの子供がやって来た。私は種痘に関する適切な記録をとらせ、詳しい事項を書き残させ、よく発痘した痘瘡から痘苗をできるだけ採集させ、国内各地に送ることにした。私はこれらのことすべてについてことのほか満足したといわねばなるまい。種痘に関しては非常な信頼があり、まったく何の反対もなく、迷信もまったく見受けられなかった。日本人はこの恐るべき病気の危険を免れることがはるかによいことを知り、特に往々にしてそれが悪質の形をとるときはいっそう恐ろしいということを理解するようになった。今日当地ではほとんどこの天然痘を想像することができない。ある二、三の藩では大名が種痘を義務として行うことにした。薩摩では児童が二歳になるとすべて種痘を受けねばならないこととした。もしこれに従わねばこれを強制して行わせた。江戸ではそのための施設を建て、そこで貧民の児童に種痘を施してもらうことができるようになった。ここでは、種痘のために、子供を病院ともいうべき場所に収容して十日間監視のもとにおいた。こうすることによって子供らを十分監督し、しかも必ず良好な結果を得ることができたのである。」
ポンペ「ポンペ日本滞在見聞記」p332-334から引用

ポンペの言葉
「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上,もはや医師は自分自身のものではなく,病める人のものである。もしそれを好まぬなら,他の職業を選ぶがよい」

(文献)
  1. 沼田二郎、荒瀬進(訳):ポンペ「ポンペ日本滞在見聞記」、雄松堂、東京、1968
    ポンペ原著:"Vijf Jaren in Japan"(日本における五年間)
  2. 相川忠臣:「出島の医学」、長崎文献社、長崎、2012(貴重な歴史資料が豊富)