2018年3月吉日
退任記念誌
「恩師とは、仕事とは、すべては病める人のために」

呼吸器内科学
主任教授 岡 三喜男
(2018年4月1日〜寄付講座:免疫腫瘍学 特任教授)

 この度、川崎医科大学を定年退任することになりました。これまでご指導とご支援をしていた頂いた皆様に、心より感謝を申し上げます。
 1990年4月、恩師の故原耕平教授から長崎大学病院へ戻るよう手紙を頂き、2004年4月に河野茂教授(現、長崎大学長)の推薦で川崎医科大学へ赴任し、計28年間の大学生活を過ごしました。1990年当時、高知県立西南病院(現、高知県立幡多けんみん病院、四万十市)に総合内科医として約3年間勤務し、日々臨床の生活でした。この経験が新設医科大学の限られた人的環境での診療に役立ちました。歴史が語るように、何事も人生経験に無駄はありません。私はこの度の退任に際し、改めて臨床医、教育者、研究者として自らをふり返って、その任を果たしたのか、「恩師とは」を自問しています。
 私は田舎町の材木屋の5人兄弟の末っ子で生まれ、働き者で男気の強い父と躾の厳しい母の下で育ちました。何びとも最初の恩師は両親であり、その生き様は両親に負うところ絶大、両親は私の目指す人生の手本となっています。父は他人に施すのが常で、小学校の講堂の大スクリーンには父の名前が刻まれていました。今年96歳になる母は、常に前向きで気丈な努力家であり個性派、床間には「他人の成功を羨むまえに、その努力の後を学ぼう」の掛軸を子供たちへの訓示のように掛けていました。両親は家業で忙しく、私は「としこ子姉ちゃん」と呼ぶ若い女性に面倒をみてもらっていました。いまでも時々、木を切る音が「カンカン」と夜中に聞こえるときがあります。我が家には、いつも職人さん(従業員)と近所の人達が集って、子供達は学校の行き来は我が家に寄って、とても賑やかでした。年末や正月になると、近所の子供達をトラックの荷台に乗せ、近くの裕徳稲荷神社(佐賀県鹿島市)へ参拝に出かけていました。
 医師になって、自ら恩師と慕う3人の先生に出会いました。3人の専門分野は違っても、各々に個性があり独特の雰囲気が漂っていましたが、共通していたのは、医学への情熱、名利に恬淡、人情に厚く、そして酒仙でした。
 一人目の恩師:故原耕平教授は、長崎大学医学部卒業後に迷った末に入局した内科学第二講座を主宰されていました。当時、原先生は教授に就任されて5年目、何事にも精力的に活動されており、同期は16名が入局しました。卒後3年目、私が五島中央病院に赴任していた時、原先生は医局旅行で福江市に来られました。私は宴席で原先生に尋ねました、「先生、臨床と基礎を両立するにはどうしたら良いでしょうか?」と、直ぐに「君は他の人の2倍働けば良い」、今もこの教えを実直に守っています。原先生は呼吸器、消化器、循環器、腎臓の各学会に参加され、医学部長も2期務め、多忙を極めておられました。しかし多忙な中でも教授外来と教授回診をこなし、入退院報告会では手帳に全患者の情報を書き込んでおられた。まさに「原先生の背中は、我々若き医師のめざす医師像」でした。私も川崎医大では、全患者のサマリーをファイルして手許に置いています。1993年、私は米国留学から長崎大学へ戻った時、人も資金も無いとき「君は実験する金も無いだろうから200万円使いなさい」と声を掛けて頂いて基礎研究を始め、今の私があります。
 二人目の恩師:故中野正心(まさもと)先生は、私が研修医2年目を過ごした長崎市立市民病院の内科部長でした。早くから、世界で初めて気管支内視鏡を開発された池田茂人先生(国立がんセンター)の下に内視鏡の勉強に行かれ、肺がんの診断と治療に精力的に取り組まれていました。とくに画像診断と気管支内視鏡には熱く、我々若い医師への教育にも情熱的、全国的な臨床研修にも行かせて頂いた。その結果、私は呼吸器科医への道を選択し、いま思えばこの時から中野先生を超えることを目標にして歩んでき来たように思います。また基礎研究を始めたのは、画像や内視鏡では肺がんは治せないと考えたからです。いまだ臨床医として、中野先生を越えられずにいます。
 三人目の恩師:故中山睿一先生(岡山大学名誉教授:免疫学、川崎医科大学客員教授)は、長崎大学時代から腫瘍免疫を教授頂いた恩師であり、川崎医大に来てから二人三脚で共同研究をした間柄です。2005年、偶然にも岡山で再会した時から、腫瘍免疫の基礎および臨床研究を開始しました。2010年、岡山大学を定年退任され、その後に川崎医療福祉大学へ招聘しました。温厚で穏やか、教育熱心、研究には妥協を許さない鋭い感覚、教養が高く真の医学者でした。我々二人はいつも酒をのみながら、研究、教育、生き方について多くを語り合いました。2017年7月20日に急逝され、いまも私の心には穴が空いたままです。
 隔世の師:1857年創立の長崎大学医学部の学祖で日本西洋医学教育の父と称されるポンペ先生です。若くしてヨーロッパから長崎出島に赴任し、西洋式病院と医学伝習所を建て医療と医学教育に全力で取り組み、日本の医学の礎を築きました。とくに医学教育では成績毎に組分けし講義しましたが、その厳しさに逃げ出す医学伝習生もいたようです。ポンペの回想録「日本における五年間」には、病人に分け隔てなくコレラの治療や種痘を施したことなど詳細に記録し、現代医学にも通じる内容が豊富に記されています。まさに医学は国境を越えるのです。私も米国留学を機に、世界から集まってくる研究者達をみて、「世界の病める人のために働く」ことを決意し、さらに臨床医学と医学研究に精を出しました。
 私は四人の恩師に恵まれ、その教えに従って、師を越えるべく懸命に臨床医学、医学教育、そして医学研究に邁進してきました。長崎大学時代、へき地医療から世界最先端の研究所での医学研究、幅広く医学を学んだことで医学の多様性を実感し、この川崎医科大学で14年間を過ごしました。私の医学への理想は、若いときから臨床と基礎の両立です。そのための「仕事とは」、毎日患者と向き合うこと、毎日最新医学を学び研究すること、日々心身共に鍛錬すること、「すべては病める人のため」です。教室では毎月、世界一流の約25誌の目次を回覧して、全員が最新の論文を読むことを心がけています。しかし私の生活が余りにも患者中心のため、学会活動が疎かになったことは否めず、果たして、私が恩師としての背中をみせられたのか疑問です。
 私は毎日の診療を続けることによって、横着ですが、最近になってやっと臨床医学が少し分かってきたように思います。いまも毎日、患者に聴診器をあて、医学生に臨床医学を教えながらひとりで外来診療をしています。昔、手当(治療)をすると言いますが、患者に手を当てること、つまり聴診器を当てることに他なりません。私の外来と病棟回診には特別のこだわりがあり、全患者に聴診器を当てることは当然、会話は患者に向けると同時に、患者を囲む医学生、研修医、教室員、栄養士を強く意識して話しかけることです。そのため会話は多岐にわたり、些細な訴え、身体所見、食事の好みまで聞き出し、このことによって栄養士は細かく会話を記録して対応しています。まさに臨床医学は茶道と同じく、総合芸術と捉えています。しかし私の医学への情熱、理想、期待は、当地の教育実態と医療事情の違いから伝わらなかった、むしろ伝えられなかったかも知れません。
 私は大学生活で誰もが自問する医師、教育者、研究者として何を残したのか、また何が残せるのかを数年前から考えていました。日本画や茶道具愛好家の私には、数百年前の作品には独特の筆致と輝きがみえ、今なお優品として愛されています。人生たかだか100年、ノーベル賞でもとらなければ泡沫のごとく消え失せる中で後世に人または物を残すとき、私立医科大学の限られた厳しい環境で医学書を書くことを決めました。これまで研究してきた肺聴診と腫瘍免疫を臨床と基礎の両面から、双方向性に考えられる本を単著で執筆しました。幸いに「肺聴診学」はベストセラーになり肺聴診のバイブルとして、「免疫腫瘍学」は出版後すぐに重版出来となり、何れも今も好評で、印税は父の教えに従い日本の未来を担う若者を支援するため「あしなが育英会」へ寄付しています。これから肺聴診学を英語版にして世界へ発信し、さらに世界の病める人のために役立てたいと考えています。
 私の医師としての最終目的は、恩師の教えに従い患者を中心に置いて、臨床医学と基礎医学を融合し、その研究成果を世界の病める人のため役立てることにあります。私は、これからも生涯一臨床医として過ごしていきます。
今後とも皆様のご指導とご支援をよろしくお願い申し上げます。
ありがとうございました。

2018年4月1日〜
川崎医科大学 寄付講座「免疫腫瘍学」 特任教授 岡 三喜男