川崎医科大学心臓血管外科学教室の「留学体験記 畝 大 先生 ここにタイトル」です。

入局案内

About us
入局案内
ホーム ≫ 入局案内 ≫ 留学体験記 ≫ 土井田進先生 タイ留学

留学体験記

畝 大 先生 カナダ臨床留学

留学に至った経緯

2010年1月から2011年12月までのトロントでの研究留学を終えて、2012年1月から2014年6月の2年半にあたります。研究留学編で書きましたが、苦労の末にカナダ国内で臨床移行できました。研究留学だけでは日本に帰りにくいなと思っていました。

英語

このころには最低限の会話は成立し、日常生活ではカナダの文化、マナーやルールも理解が進み過ごしやすくなっていました。オタワは不動産や車屋に日本人がいないため、両方とも完全に英語で契約しました。(トロントでは日本人を頼りました。)契約書には見たことがない専門用語が多くて読むのが大変だったことを覚えています。その他、医師ライセンスへの書類手続きなど全てなんとかこなせるようにはなっていました。

留学環境

オタワ自体はオンタリオ州(公用語が英語とフランス語)ですが、川を挟んでケベック州(公用語がフランス語のみ)と接しており、川向こうのハルという町(人口20万人ぐらい)と合わせて100万人の都市を形成しています。車で川を渡るとケベック州となり道路標示がフランス語のみとなったり、オンタリオ州よりパン屋やステーキ屋がおいしいところがあったり、自然も豊かで公園も多く独特の異文化経験ができました。日本人はオタワーハル都市圏内に約2000人程度在住で大使館関係の人が多かったです。トロントよりもさらに日本食品や日本文化から遠ざかります。世界中からたくさんの観光客が来るチューリップ祭りや、7kmにおよぶリドー運河(冬には自然のスケートリンク)など、とても自然が美しい街で楽しい思い出は多いです。 通勤路は住宅街の中を1.5kmほど歩いて通っていました。各々の家の庭が広く、街路樹も豊富でちょっとした森のようでした。夏季は毎朝必ず3-5匹のリスと出会いながら気持ちよく通っていました。

留学先と研修内容

留学先はオタワ大学の附属病院University of Ottawa Heart Instituteの心臓外科でした。心臓に特化した施設で基礎研究棟もあり年間約1200例の成人心臓手術を行っていました。成人心臓手術施設がこの100万人都市圏でここ1施設だけであり、移植など全ての術式が行える病院となると隣はトロントとなり500km 離れていました。オタワ大学は1つの病院で心移植、LVAD、肺動脈血栓内膜摘除術から一般的な冠動脈バイパス術、低侵襲手術、TAVI、MitraClipまで幅広く提供しており勉強しやすい病院でした。術者はDr. Mesana という僧帽弁術者がトップで、Dr. Ruel とDr. Boodhwani という2人の有名若手術者、ほかに5人のスタッフ術者の計8人でした。1人あたり100-200例の手術を行っていました。カナダ特有なのかもしれませんが研究に恐ろしく力を入れており、トロントで身につけた統計処理やデータ処理、論文作成能力は高く評価してもらえました。それによって、手術執刀機会を与えてもらえるという好循環もありました。北米で低侵襲手術や数々のTrial で有名な Dr. Ruel が、言語の壁を越えて僕の統計処理能力と手術能力を一番高く評価してくれました。性格も恐ろしく穏やかであり、僕の留学中にChief になりましたが、そのような先生に気にかけてもらえたことは幸運でした。

カナダ人研修医、修練医チーム

当たり前のことですが、施設として自国カナダ人の正規研修医をトレーニングすることが外人トレーニングよりもはるかに大事です。僕が留学した当時の外人フェローは僕を含めてエジプト人、サウジアラビア人、アルメニア人、イタリア人と様々で同時に3-5人で勤務していました。そこにカナダ人研修医がsenior と junior で2人(卒後5年目と2年目ぐらい)でした。手術室は3部屋同時稼働で、各々の部屋で午前午後に1件ずつの2件が予定されており、1日計6例が基本、そこに外人フェローと正規レジデントが割り当てられる感じになります。この割り当てをカナダ人のシニアレジデント(チーフレジデント)が割り振ってよいという絶大な特権を持っていました。シニアレジデントは入りたいところに入りトレーニング、あとの枠は適当に均等になるように決められていました。 8人の術者には個性があるため、自分と性格が合う、あるいは自分のことを評価してくれる術者じゃないと、なかなか執刀機会が得にくかったです。僕の場合は、8人の術者中、執刀機会をくれる術者がDr.Ruel を含めて当初は4人、あとはなかなかチャンスが無い印象でした。執刀するにはその4人の術者症例を担当する必要があります。施設として1200例症例数があっても100例以上執刀修練する機会は、フェローとレジデントの中からせいぜい合わせて2人まででした。Dr. Ruel とがっちりとResearch を一緒にやることで信頼を得ながら、手術操作も認められることでDr. Ruel側から僕を指名してもらえるようになり一緒に入るほとんどの症例で執刀させてくれるようになりました。(スタッフ術者側がフェローを指名することはシニアレジデントの特権を無視することになるのでシニアレジデントは怒っていましたが。。。)一方でシニアレジデントとは共同研究を通して恩を売ることで僕の希望の手術枠に入れてもらえるようになりました。これら政治的な動き?で圧倒的に執刀機会や自分の興味のある症例への手洗いが増えていきました。当初は手術執刀をさせてくれなかった残りの4人の先生達も横でそれを見ていて2~3例に1例は執刀させてくれるようになっていきました。最終的には8人中7人の術者が執刀を任せてくれるようになりました。残りの1人は術者になったばかりの先生で難しかったです。 そのような感じで、年間300症例程度の手洗いのうち、CABGとAVRがメインにはなりますが、時間とともに半分ぐらいの執刀を任せてもらえるようになりました。最終的にLVAD、MICS-CABG、MVPなど経験しにくい症例も執刀することができました。Researchが手術への道を開いてくれたのだと思います。カナダではこの傾向は特に強いと思います。同僚の外人フェローが年間5例程度の執刀にとどまったり、1年で契約を打ち切られるのも目の当たりにしましたので運は良かったのだと思います。1年ごとの契約延長時には給与を25% アップしてくれたり、2年経つ頃には助教でスタッフへという選択肢も出してくれました。

日本への思い

英語が得意だったわけではないので常に70% 程度の能力で仕事をしている感覚はありました。「母国語であればもっと患者を安心させることができる」、「日本だったらもっとうまく立ち回れる、要領よくやれる」、といったストレスから、オタワで1年半経過するころには日本で術者として100%の力を出して働いてみたいという気持ちが出てきました。もう1点、自分の息子の日本語能力が低くなっていると感じたことも帰国を考えた理由です。カナダ生活も3年を超えてくると、息子は友達や学校で話す英語の方が圧倒的に得意になっており、家族と日本語で会話することが難しくなってきていました。会話の中で日本語の単語が分からないことが頻回になり、日本語で説明すると、さらにその説明の中の単語も分からないというような感じでした。将来的にしっかりした家族の意思疎通ができなくなるかもしれない、日本に住んでくれなくなるかもしれないと感じたことを覚えています。 これらは、単純に自分の英語能力が高ければ感じなかったことかもしれません。4年住んでいても言語の壁を感じ、一生そのままカナダに住む覚悟が無かったということなのだと思います。日本食やコンビニ、文庫本など日本文化がとても恋しかったことも確かですし、外から見て日本のすばらしさが深く身にしみて心から分かりました。気持ちが整っても、帰国する場所やタイミングは運によると思います。幸運にも昔から憧れていた日本の病院から術者契約のお話しをいただき、2014年夏から帰国することを決めました。


  • 1. 修練医は多国籍軍でした 左から、イタリア人、サウジアラビア人、日本人、アルメニア人、エジプト人

  • 2. 全長 7km のリドー運河が冬は天然のスケートリンクに。オタワ市民の憩いの場です。

  • 3.これは家の前の公園、画像に入りきらない一面のチューリップが街いっぱいに咲き誇ります。遠くに見えるような湖や公園は街のなかにたくさんあり、癒される日々を送れました。